ポルトガルの食べ物、生活、観光情報


by caldoverde
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春満開のテージョ河畔

年に一度か二度、真空包装のうなぎの蒲焼きをリスボンの日本食品店から購入する。値段は15€ほどなので、3〜4個1パックで5€(‼︎)の納豆に比べればそう高いものではないかもしれないが、たまの楽しみ、たまの贅沢だ。甘辛いタレが満遍なく絡めてあるので、皮と脂肪が分厚くて身が若干薄かろうと、まあまあ美味しく食べられる。しかし日本の鰻屋のうなぎのような、香ばしくふっくらと焼けたうなぎを食べるのは、異国では叶わないのだろうか。

エキスポ地区から伸びるヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡った対岸には、塩田や潟が広がり、夏の雨の少ない時期には河の中央にも泥の中州が出現する。緩やかな流れの水は満潮になれば海水の混じり合う汽水となる。そこには様々な生き物が棲み、豊かな生態系を作った。昔はテージョ河沿岸に住む人々は、その日の糧を欠くことはなかったそうだ。それだけ魚や貝がたくさん採れた。その中にうなぎもいた。

ポルトガルのうなぎの料理というと、ぶつ切りにしたうなぎを野菜とともにトマト味で煮込んだカルデイラーダや、まだ細い若いうなぎに衣をつけて揚げた天ぷらが代表格だ。というか他に知らない。そういううなぎ料理を食べる度に蒲焼きの美味しさを思い出していたのだが、ついに日本のうなぎ料理と肩を並べられそうなメニューに出会った。
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青空に泳ぐうなぎの看板

リスボンからヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡ったところにあるモンティージョという町に「うなぎの家 Casa das Enguias」というレストランがある。その名の通り、看板はうなぎ、うなぎ料理がスペシャリティである。と言ってもうなぎのメニューは、上記の二点に加えて、うなぎの炭火焼の3種類しかない。なお、松竹梅のランクもない。店員にうなぎの炭火焼とはどんなもんか、聞くまでもないことを尋ねた。それは開きにして塩だけで焼いたものだという。ん?それってうなぎの白焼きに近いものではないか。

ポルトガルの魚料理の大半はシンプルな塩焼きだが、素材の新鮮さが左右するごまかしの効かない料理でもある。また泥に住む魚であるうなぎは、日本の専門店では何日かきれいな水に放して泥を吐かせてから調理されるが、ポルトガルでそんな丁寧な下ごしらえをするのだろうか?
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これで2人前ですが3人でも十分な量

そんな心配は杞憂だった。プリッと弾力のある白いうなぎの身は硬くもなく柔らかすぎもせず、日本のスーパーの特売品の皮がゴムのような輸入うなぎとは雲泥の差であった。十分に脂がのっていて、とろけるような味を、粗塩がキリッと引き締める。しかも全然泥臭さがない。レモンを絞ってかけるとこれまたまたさっぱりして美味しい。タレにごまかされない、うなぎ本来の味が十分に堪能できる。こんな上等のうなぎなら蒲焼きにしてもさぞ美味しかろうと思うが、これだけ臭みがなければやはり白焼きのままの方が良いかもしれない。次に来る機会があれば、わさび、醤油、ポン酢を持参しよう。

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by caldoverde | 2016-04-26 01:23 | シーフード | Comments(4)

リスボンから九州へ

このたびの熊本、大分の地震で被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。ポルトガルでも報道されましたが、直後に起こったエクアドルの地震の方が数的に被害甚大で、九州の地震はかつてない規模の大きさにもかかわらず、目立たなくなってしまった感があります。東日本大震災ではポルトガル在住の日本人も大いにアピールしましたが、4月20日現在のところ日本大使館や日本人会等で特別な動きがないのが少々気になります。ポルトガルでもくまモングッズや熊本の物産が手に入れば、間接的に支援できるのですが…。

以前もブログで取り上げたリスボン大震災は、ポルトガルの人々にとっては歴史の中の出来事であり、世界中で起こる大地震は遠い知らない国の話でしかない、という認識が現実だと思います。しかしながら、大災害を後世に伝えようという先人の意思は地名やモニュメントに残され、ささやかながらも人々に警告を与え続けています。

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窓の右の通りの名前を表すプレートには「地震の階段通り」

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こちらは「地震食堂」

私の住むリスボンのカンポ・デ・オリーク地区にはTerramotos(地震)という不思議な地名があります。高台に位置するこの地区は、1755年のリスボン大震災の被害を免れることができました。当時は人家もまばらな田園地帯で、リスボンの市街をなめ尽くした火事の延焼やテージョ河を襲った津波からも逃れることができたようです。住民は大震災の翌年から、自分たちを救ってくれたキリストに捧げる小さな教会を建立し始め「地震のキリスト礼拝堂」(Ermida de Nosso Senhor dos Terramotos) と名付けました。お堂に通じる階段の道は「地震の階段通り」そのあたりにある居酒屋は「地震の花」という名前で、由来を知らなければ変な名前だと思われるでしょう。
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今は神父さんもいらっしゃらないようです

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教会の壁には地震の義援金を集めるための穴が設けられている

大震災の後、リスボンでは「まさしくカンポ・デ・オリーク」という表現が生まれました。高台のこの地区が地震や津波の直接的な被害から免れた故事にちなみ、絶体絶命の状況がすぐそこまで迫っているが、どうにか切り抜けることができる、危機一髪という意味合いで使われます。

カンポ・デ・オリークの丘からリスボンの重要なモニュメントである、アグアス・リブレス水道橋が延び、アルカンタラ渓谷を跨いでいます。この水道橋が1748年に完成した数年後、大震災が起こります。近くには断層があるのですが、断層から少し離れた場所を土台とし、カンポ・デ・オリークの丘とモンサントの山を支えに、35のアーチの並ぶ、ことに中央の世界最大のアーチは無駄と批判を受けながらも鉄で補強されたこの水道橋は、おそらく震度6か7の激震にも持ち堪え、当時の土木技術の素晴らしさを今に伝えてくれます。
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小川にかかった太鼓橋のある辺りは、現在のカンポリーデ駅

九州の地震で、改めて日本は地震国であり大地震の起きない場所は無いことを思い知らされました。また、災害が一瞬のうちに個人の生命や財産を奪ってしまうという恐怖を、またしても見せつけられました。しかし個々の力は微弱でも、人々の心と力を合わせればいつか再び立ち上がることができると歴史は教えてくれます。そしてそこから得た教訓は必ず後世に伝えなければならない、それが今生きている私たちの責務ではないかと思います。
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エヴォラにも、地震から救われたことを神に感謝して造られた小さな祭壇がメインストリートの建物の壁に

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by caldoverde | 2016-04-20 21:25 | カルチャー | Comments(2)