シントラの森の中に黒い大きな屋根を持つ屋敷がある。1998年のロマン・ポランスキー監督のミステリー映画「ナインス・ゲート」で、アメリカ人の古書ディーラーを演じるジョニー・デップが、世界に3冊しかない魔術の本の真贋を確かめる為に、そのうちの1冊を所有するポルトガル人のコレクターを訪れるシーンに登場するビースター・パレスである。陰鬱な青みがかった映像は、半ば廃墟の様だったこの館をより一層不気味なものに印象付けた。映画の公開から20年以上を経て、改装を終え一般公開されるようになったのはつい最近のことで、まだあまり知られていないシントラのモニュメントである。
シントラの中心部にある観光案内所から歩いて数分のところに、ビースター・パレスの入場口があるが、そこから建物までは、くねくねカーブした坂道を登らなくてはいけない。様々な植物の生い茂る庭園の、小道に覆い被さるような木立の向こうには、ムーア人の城やシントラ王宮などが臨めるが、夜は1人で歩きたくない。ようやく屋敷に辿り着くと、門扉の前にコート姿の男性が立っている。この暑いのになあとよく見ると、ジョニー・デップではありませんか!
ビースター・パレスはドイツ系のファミリーが19世紀末から20世紀初頭にかけて建築した邸宅で、当時の一流の建築家が手がけ、最新流行のアールヌーボー様式や、中世や大航海時代のゴシック、ネオマヌエル様式などを取り入れたインテリアが、豪奢なブルジョアの生活を彷彿させる。20世紀の初めは繊細極まりない化粧漆喰の天井や、豪華な彫刻を施した家具や建具、幻想的かつリアルなフレスコ画等の装飾技術を継承する職人がいたのだなと感傷の混じった感銘を受けた。しかしながら、たとえ質素な内装だったとしても、どの窓からもシントラの絶景が見えるのはそれだけで最高の贅沢である。
すぐ隣にあるレガレイラ宮殿も、かつてはフリーメイスンの館として神秘的な雰囲気が魅力だったのだが、近年インスタ映えする写真を撮りに観光客が殺到するようになり、ミッキーマウスのいないディズニーランドと化してしまった。ブラジル生まれの大富豪のモンテイロ氏は、宇宙の成り立ちや生命の輪廻、神話の世界観などをシンボライズした哲学的な庭園を造り、自然と人工が渾然一体となった環境の中で、瞑想に耽り、動植物の観察に熱中し、来客を地底のトンネルに誘い入れて、彼らが不安に慄くのを見てほくそ笑んでいたことだろう。今は人が多すぎて、思索どころではない。そんな喧騒から離れて静かにデートしたい方には、まだあまり人の来ないビースター・パレスをお勧めする。シントラの名物のお菓子を出すティーハウスもあるし、展望台もある。お一人様でもジョニー・デップとツーショットが撮れるし。