リスボンから東北へ
2011年 03月 13日
これら地獄の様な光景が私の生まれ育った宮城県の現況だなんて信じたくない、悪い夢であってほしいという思いと、これから一体東北は、日本はどうなるのかと途方に暮れる気持ちがぐるぐると空回りしていました。宮城県沖地震や震度5級の地震は何度か体験済みの私ですが、それらを何個も集めた力を遥かに上回る規模で自然は襲って来ました。何の警告もなく。
3月は旅行シーズンの開幕、多くの日本の方がポルトガルを訪れます。この日も空港にお客様を迎えに行きました。既に空港などでニュースを聞いたお客様に一体どうお声をかけたものか悩みました。「良い思い出を作って下さい。」これが適切な言葉だったのかどうかは分かりません。しかし折角の美しい時期に入ったこの国の印象を僅かでも留めて欲しい、そして東北が神戸のように復興を果たしたら、日本が元気になったら、またあの街を今度はゆっくり時間をかけて見に来よう、そう思って頂けることを切に願いつつ…
なぜなら、リスボンは大震災から復活した都市だからなのです。
1755年11月1日午前10時頃、推定マグニチュード8.5という大地震がポルトガル南西のサン・ヴィセンテ岬沖で発生した。当時リスボンはヨーロッパの中でも人口密度の高い大都市だった。街は中世来の細い路地の上に無秩序に建てられた住宅が、サンジョルジェ城のある丘からテージョ河に向かって広がっていた。その日は諸聖人の日、教会にはミサに参列する信者が集まり、家に残っていた者も祭壇にロウソクをともしていた。激しい揺れは10分間も続いた。石やレンガで出来た建物は崩壊し、倒れたロウソクは大火災を引き起こした。生き延びた人々は崩れ落ちる建物と火から逃れるためテージョ河に逃げた。全ての船は満杯になった。そこへ津波が襲いかかり、船も人も飲み込まれた。被害はポルトガルのみならず、北アフリカ、スペイン南部にまで及んだ。
人類史上、詳細な記録の残る最初の大天災であるリスボン大地震は、その後の災害に対する行政のあり方において、また近代の地震学の発展において、明確な指針を示しました。時の国務大臣であった後のポンバル侯爵ことカルヴァーリョ・デ・メロは独裁的権力を駆使して、市街の再建、治安の安定、必要な物資や人員の確保、疫病の予防のために、数々の、実に有効な法令を発布し、リスボンを瓦礫の山から再び宝石のような街に再興させたのです。敵に対する冷酷残虐な姿勢は、多くの憎しみも生み出したのですが、今は観光名所となっているバイシャ地区やリベルダーデ大通りを通る度、彼の業績の偉大さには感銘を受けざるを得ません。
もし今日本にポンバル侯爵がいたら、どの様な指揮をとっていただろうか、虚しい空想ではありますが、もっと効率良く事が運んだのではないか、責任者は厳罰を免れなかったのではないかと、歯がゆい想いです。
今は遠い歴史の出来事として記憶の隅で埃をかぶっている18世紀のリスボン大地震。地球の裏側で起きた災害に心傷める優しい人々よ、あなた方に再びこの様な悲劇が起きないことを祈ると同時に、どうか先達としてその貴重な経験を日本にも伝えて欲しい。人類共通の遺産として。
ブラジルのミュージシャン、イヴァン・リンスが歌う「上を向いて歩こう」7月のポルトガル公演でも歌ってくれるといいなあ。
画像で見る、という点においてはリスボンも東京も変わりないかもしれません。衝撃でした。
caldoverdeさんの、ご実家の皆さんはご無事でしたか?
我が家の老親は、驚くほどの頑張りと強さを見せてくれました。
東京も、かなり揺れましたが、震源地近くは、どれほどだったかと思います。
まもなく震災から一カ月。
まだまだ寒い東北、少しでも早い復旧復興を願うばかりです。
1755年のリスボン大地震に関する本を読むと、驚くほどの共通点や、見習うべき点が見られます。ポルトガルは原発はもたず、太陽熱や風力などの代替エネルギーによる電力が37%だそう。エコな国です。
専制政治家だったポンバル侯爵がいたからこそ、再建できたんだろうと思うわ、今じゃ頼れる政治家がいないね。ベラルドさんとかジョアン・ジャルディン(マデイラの田中角栄w)の方が頼りになるかもしれない。毎日、日本のニュースを読むのが辛いです・・・・