阿蘇列島旅日記5 サンタ・マリア島2 ドライヴィングinサンタ・マリア
2011年 07月 30日
朝は自転車で空港まで出かけた。サンタ・マリア空港はアソーレス諸島の中で最大、ポルトガル国内でも2番目に長い滑走路を持つ空港だそうだ。どの方向の風にも対応できる4つの滑走路を持つ。他の島の空港は海岸線ぎりぎりに滑走路が設けられているが、サンタ・マリア空港は高低差のほとんどない広大な草原の中に位置する好条件。1970年代のオイルショックまで、サンタ・マリア空港は大西洋路線の給油地として、アメリカ・ヨーロッパ間を結ぶ飛行機は必ず立ち寄っていた。何とコンコルドまで離着陸した!だから空港内のカフェはコンコルドという名前である。かつての栄光はいずこ、がらんとした構内には辛うじて国際空港としての名残が見られ、観光案内所もある。ここでバスの路線と運行状況を書いた紙を手に入れた。
空港の入り口にはミニバスが待機している。空港とヴィラ・ド・ポルトを結ぶシャトルバスで、毎時5分に出発する。土曜日は午前中のみ、日曜運休、料金は1ユーロ。こんな小さな島の空港にしては上等である。運転手は折りたたみ自転車を載せるのを快諾し、若い男性の乗客は自転車を積み込むのを手伝ってくれた。乗客は私と彼ともうひとりだけであった。
もう一つの路線はヴィラ・ド・ポルトを出発して各集落をまわり、終点で折り返しまたヴィラ・ド・ポルトに戻る路線バスで1日2~3往復する。これも土曜は午後の便、日曜は全便運休である。金曜日の今日乗らないと2度と乗れない。シャトルバスがヴィラ・ド・ポルトに着くころ、ちょうど路線バスが出発する。そして再び戻ってくる時刻が、ちょうどタクシーの運転手と約束した3時になる。地元の人たちが乗り降りする普通のバスにのんびり揺られるのも旅の楽しみのひとつである。予定は決まった。後は自転車をどこに置くかである。
バスは買物袋を2つ3つ提げた女性達を降ろしながら、山間部の集落を巡った。地図で見るとすっきりまっすぐに見える道路も実は曲がりくねった山道である。直線距離の2~3倍はあるような気がする。終点のマルブスカまで片道1時間。観光の目玉である海岸線はかすめもしない。本当に住民の生活の足なのだ。山間部に住む人々は小規模の畑を耕作し、山羊などの家畜を飼い、自給自足的な生活をしてきた。平野部とは違って緑も多く、こちらはポルトガル北部の景色に似ている。住宅はこの島独特の矩形にロケットの様な円柱の煙突をもつ可愛らしい家だ。
ヴィラ・ド・ポルトに戻り、今度はタクシーに乗って海岸部を含め島一周ツアーに出発。コースは運転手のお任せだが、4時間弱で島の全てを見せると保証した。
島の最高峰、ピコ・アルト、590m。天気が良ければ島全体が見渡せる。1989年2月イタリアを発った旅客機がこの山に衝突するという大惨事が起こり、その慰霊碑が建っている。
運転手が島一番、もといアソーレス1の景色だと推すサン・ロレンソ湾。海に向かって落ちていく斜面には石垣で区切られたブドウ畑が扇のように広がる。大雨で岸壁が壊れ、護岸工事をしているため、海水が濁っているのが残念。
エスピリト・サント村の同名の教会。ダイナミックな黒い石の縁取りと白い壁が強烈なコントラストを生み出す18世紀のバロック建築。
ほとんど垂直の岩山の斜面にブドウ畑を作ったマイアの村。大変な努力だが、残念ながら近年は手入れする人もいなくなり放置された畑も。
夏はわずかな水量しかないマイアの滝は、島一番の高さを誇る。
島最古の灯台と崖に作られたブドウ畑。ダイナミックな景観。
さらさらなきめの細かい砂のプライア・フォルモーザ(麗し浜)。黒い溶岩が固まった荒磯ばかりのアソーレス諸島のビーチの中で最も美しい砂浜である。8月15日には大規模な音楽祭が行われる。
さしたる産業もなく、農家は補助金を頼り、本土に行ったきり戻ってこない若者も多いこの島だが、タクシーの運転手はここの静かな生活を愛している様子が、朴訥とした話しぶりの端々に感じられた。
夕食はポルトガルのどこにでもあるようなタスカ(居酒屋)「オ・ジョルジェ」でヴェジャンという魚のフライを食べた。図鑑によると英名パロットフィッシュ。市場でもよく見る腹が赤い魚である。見た目の残念さと親父が集う店の雰囲気からの予想を裏切る、淡白で上品な味だった。グラスワインもこのクラスの店にありがちな素性のはっきりしないハウスワインでなく、2006年ドウロ地方産の意外と上等なものだった。この店も英語のガイドブックには載っていない。
外国人の女性一人で旅ができるとは、ポルトガルは治安がいいのですね。
島はみな顔見知りばかりなので、悪いことをするとすぐばれます。でも犯罪が全くないとは言えません。