エストレモスの思い出
2012年 05月 28日
抜けるような青空の下、コルクやオリーブの林の下は緩やかに波打つ緑のじゅうたん、小高い丘にたたずむ古城、洗い立てたような石灰の家々、乳白色の大理石を敷き詰めた歩道。アレンテージョの村はどれも白昼夢のような美しさを持つ。中でもエストレモスはその白眉だ。そして私にとって忘れがたい思い出の場所でもある。

城壁に向かう階段も大理石
20年近く前のこと。現在ポザーダ(歴史的建築物ホテル)となっているエストレモスの城に向かう坂道の入り口に「イザベル民芸店」という土産店があった。窓にはこの村の有名な工芸品である土人形や、アレンテージョ地方独特のカラフルな絵皿、座をロープで編んだ木の椅子のミニチュアなどが並べられていた。老人が一人店番をしており、窓から覗き込む東洋人の旅行者である私を店に招き入れ、これは土笛、これは水瓶、と身振り手振りで説明してくれた。どれも壊れやすそうなものばかりで、また貧乏旅行中だったので、売り上げに貢献できなかったが、店の写真を撮らせてもらった。おじいさんも自分の写真を撮って送って欲しいと私に頼んだ。旅行を終えて日本に帰ると、簡単なポルトガル語で書いた手紙を写真に添えて「イザベル民芸店」に送った。当時は郵便番号は4桁しかなく非常に簡単な住所で、これだけであの遠いポルトガルの片田舎に届くのだろうかと不思議な気がした。

大航海時代に流行った特徴的なアーチのある家
送った写真のことなど忘れていたころ、エアメールが仙台の家に届いた。丸い虫のような字でSr. João Lopes という名前が書かれていた。あの店番のおじいさんが写真のお礼の手紙を仙台に寄こしたのだ。全く予期していなかったので、嬉しい驚きだった。自分の名前にSr.という敬称を付けているのにちょっと微笑ましさを感じた。私も辞書を引き引き拙いポルトガル語で返礼をした。すると何とまた返事が来た。判読に苦労する文字は、慣れない手紙を一生懸命書く老人の姿を髣髴とさせた。
1~2ヶ月に1通の割合で、文通は5年くらい続いただろうか。ある時期から、返事がぷっつり途絶えてしまった。数ヶ月置いて、あの丸い虫のような読みにくい文字の手紙がようやく届いた。しかしよく見ると差出人はジョアンじいさんではなく、女性の名前になっている。
「はじめまして、私はマヴィルデ・ロペスと申します。ジョアン・ロペスさんは私の名付け親です。私は今までジョアンおじさんに頼まれて、あなたに手紙を書いておりました。ジョアンさんは今病気で入院中ですので、私が彼に代わってこの手紙を書いてます。」
という内容だった。実はジョアンじいさんは字が書けず、自分が名付け親となった近所の女性に代筆を頼んでいたのだった。今度はマヴィルデと文通を続けることになった。彼女は同じエストレモス出身の旦那さんと息子の三人家族で、近くに住む母親の小さな食料品店を手伝っていた。ジョアンじいさんの店から買ったのだろうか、コルクの小さなお土産品なども送ってくれた。ジョアンじいさんは酒飲みだったそうで、脳卒中か肝硬変で倒れたようだった。エヴォラの病院に搬送されたが、残念ながら亡くなってしまったとの知らせが届いた。

唐辛子やニンニクが釣り下がった中央広場の屋台
数年後、再びエストレモスを訪れる日が来た。ジョアンの娘イザベルの代になった「イザベル民芸店」を訪ねた。すぐそばのレストランではマヴィルデと家族がテラス席で食事をしていた。私はイノシシのステーキをご馳走になった。食事の後彼女の家に招待された。エストレモスの城の周りを囲む城壁に接した、築何百年という古い家だ。家族三人がやっと住めるような小さな家だが、内部は驚くほどピカピカに磨き上げられた大理石で出来ていて、造花や置物で飾りたてられ、インテリア雑誌の写真のようだった。
その後、マヴィルデのお母さんの食料品店に立ち寄りパンをお土産に持たされ、ジョアンの未亡人の家も訪ねた。おばあさんは見知らぬ外国人の私に亡き連れ合いの思い出話を語った。二人はまだ10代の頃に駆け落ちしてこの村にやって来たのだそうな。質素な家の飾り物と言えば、寝室のシワ一つなく整えられたベッドの真ん中に置かれた陶器の豚と、棚の赤ん坊の人形くらいだった。独りになったおばあさんは時々人形たちに話しかけ、寂しさを紛らわせていたのだろうか。四方を白壁に囲まれた2畳間くらいの部屋には天窓が空けられて、小さなソファだけ置いてあった。まるで中世から変わっていない庶民の暮らしを見るようだった。

マヴィルデの家はこのアーチのすぐ後ろにあった
その後ポルトガルに住むようになり、4~5年前はツアーの仕事で何度かエストレモスを訪れた。その頃もうマヴィルデはいなかった。彼女は病気で亡くなっていた。「イザベル民芸店」を継いだイザベルも亡くなり、彼女の夫が店と別の仕事を兼業していた。立て続けに家族や知人を失った新しい店主は「これが人生さ。」と寂しそうに言った。
最近久々に仕事でエストレモスに行く機会ができた。ところが「イザベル民芸店」自体がなくなっていた。昔マヴィルデにイノシシをご馳走になったレストランの主人は、ジョアンじいさんの文通相手だった私を覚えていて、あの店を閉めたのは割と最近のことであると告げた。もう少し早く来ていれば、あの店でお土産を買うことができたのだが・・・
またこの村を訪れることがあればその時は、イノシシか野ウサギを食べながら、レストランの主人にジョアンじいさんやマヴィルデの思い出を語ってもらうことにしよう。

20年近く前のこと。現在ポザーダ(歴史的建築物ホテル)となっているエストレモスの城に向かう坂道の入り口に「イザベル民芸店」という土産店があった。窓にはこの村の有名な工芸品である土人形や、アレンテージョ地方独特のカラフルな絵皿、座をロープで編んだ木の椅子のミニチュアなどが並べられていた。老人が一人店番をしており、窓から覗き込む東洋人の旅行者である私を店に招き入れ、これは土笛、これは水瓶、と身振り手振りで説明してくれた。どれも壊れやすそうなものばかりで、また貧乏旅行中だったので、売り上げに貢献できなかったが、店の写真を撮らせてもらった。おじいさんも自分の写真を撮って送って欲しいと私に頼んだ。旅行を終えて日本に帰ると、簡単なポルトガル語で書いた手紙を写真に添えて「イザベル民芸店」に送った。当時は郵便番号は4桁しかなく非常に簡単な住所で、これだけであの遠いポルトガルの片田舎に届くのだろうかと不思議な気がした。

送った写真のことなど忘れていたころ、エアメールが仙台の家に届いた。丸い虫のような字でSr. João Lopes という名前が書かれていた。あの店番のおじいさんが写真のお礼の手紙を仙台に寄こしたのだ。全く予期していなかったので、嬉しい驚きだった。自分の名前にSr.という敬称を付けているのにちょっと微笑ましさを感じた。私も辞書を引き引き拙いポルトガル語で返礼をした。すると何とまた返事が来た。判読に苦労する文字は、慣れない手紙を一生懸命書く老人の姿を髣髴とさせた。
1~2ヶ月に1通の割合で、文通は5年くらい続いただろうか。ある時期から、返事がぷっつり途絶えてしまった。数ヶ月置いて、あの丸い虫のような読みにくい文字の手紙がようやく届いた。しかしよく見ると差出人はジョアンじいさんではなく、女性の名前になっている。
「はじめまして、私はマヴィルデ・ロペスと申します。ジョアン・ロペスさんは私の名付け親です。私は今までジョアンおじさんに頼まれて、あなたに手紙を書いておりました。ジョアンさんは今病気で入院中ですので、私が彼に代わってこの手紙を書いてます。」
という内容だった。実はジョアンじいさんは字が書けず、自分が名付け親となった近所の女性に代筆を頼んでいたのだった。今度はマヴィルデと文通を続けることになった。彼女は同じエストレモス出身の旦那さんと息子の三人家族で、近くに住む母親の小さな食料品店を手伝っていた。ジョアンじいさんの店から買ったのだろうか、コルクの小さなお土産品なども送ってくれた。ジョアンじいさんは酒飲みだったそうで、脳卒中か肝硬変で倒れたようだった。エヴォラの病院に搬送されたが、残念ながら亡くなってしまったとの知らせが届いた。

数年後、再びエストレモスを訪れる日が来た。ジョアンの娘イザベルの代になった「イザベル民芸店」を訪ねた。すぐそばのレストランではマヴィルデと家族がテラス席で食事をしていた。私はイノシシのステーキをご馳走になった。食事の後彼女の家に招待された。エストレモスの城の周りを囲む城壁に接した、築何百年という古い家だ。家族三人がやっと住めるような小さな家だが、内部は驚くほどピカピカに磨き上げられた大理石で出来ていて、造花や置物で飾りたてられ、インテリア雑誌の写真のようだった。
その後、マヴィルデのお母さんの食料品店に立ち寄りパンをお土産に持たされ、ジョアンの未亡人の家も訪ねた。おばあさんは見知らぬ外国人の私に亡き連れ合いの思い出話を語った。二人はまだ10代の頃に駆け落ちしてこの村にやって来たのだそうな。質素な家の飾り物と言えば、寝室のシワ一つなく整えられたベッドの真ん中に置かれた陶器の豚と、棚の赤ん坊の人形くらいだった。独りになったおばあさんは時々人形たちに話しかけ、寂しさを紛らわせていたのだろうか。四方を白壁に囲まれた2畳間くらいの部屋には天窓が空けられて、小さなソファだけ置いてあった。まるで中世から変わっていない庶民の暮らしを見るようだった。

その後ポルトガルに住むようになり、4~5年前はツアーの仕事で何度かエストレモスを訪れた。その頃もうマヴィルデはいなかった。彼女は病気で亡くなっていた。「イザベル民芸店」を継いだイザベルも亡くなり、彼女の夫が店と別の仕事を兼業していた。立て続けに家族や知人を失った新しい店主は「これが人生さ。」と寂しそうに言った。
最近久々に仕事でエストレモスに行く機会ができた。ところが「イザベル民芸店」自体がなくなっていた。昔マヴィルデにイノシシをご馳走になったレストランの主人は、ジョアンじいさんの文通相手だった私を覚えていて、あの店を閉めたのは割と最近のことであると告げた。もう少し早く来ていれば、あの店でお土産を買うことができたのだが・・・
またこの村を訪れることがあればその時は、イノシシか野ウサギを食べながら、レストランの主人にジョアンじいさんやマヴィルデの思い出を語ってもらうことにしよう。
まるで古い映画のようですね。
何気なく暮らしているお爺さんにも、ささやかな歴史があって、小さな事件があって。
それと比べて騒音問題!今や都会には人情が無いのでしょうか!
何気なく暮らしているお爺さんにも、ささやかな歴史があって、小さな事件があって。
それと比べて騒音問題!今や都会には人情が無いのでしょうか!
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ポルトガルでは「ここはまだ昭和か?!」と思わせられるような風景や人に出会います。特にテクノロジーの分野は・・・なんともいえない郷愁を感じるのがポルトガルの良さだと思います。
caldoverdeさんも、ポルトガルがずいぶんと長くなりましたよね。
見かけはほとんど変わらないのに…
見かけはほとんど変わらないのに…
1km先から見かけたら、あまり変わってないかもしれません。1km先から見ると美しいポルトガルにいますので。
ううっ、アレンテージョなのに泣かせる・・・まるでファドみたい、しみじみサウダーデあふれる実話ですな。
リスボンは、ジャカランダの時期以外は、夜目、遠目、飛行機から見下ろしたのが一番美しいかなww
リスボンは、ジャカランダの時期以外は、夜目、遠目、飛行機から見下ろしたのが一番美しいかなww
マヴィルデは、旦那さんは「ソシエダーデ」に所属してコーラスを歌っていると言ってましたが、当時は何の事か分かりませんでした。彼はアレンテージョ各地にある「カント・アレンテジャーノ」(男声による民謡合唱曲)の愛好会のメンバーだということでした。私はファドより大地から響く様なアレンテージョ民謡が好きです。youtubeの動画を貼り付けておきます。
私も好きでCD持ってますー!これってブルガリアンヴォイスに匹敵すると思うのですが、いかんせんむさくるしいオジサンだからな(苦
1分間、IL DIVO の写真をじっと見つめた後、目を閉じてアレンテージョ民謡を聞くと良いです。
すいません、ごはん食べながら泣いています
ポルトガルには見知らぬ外国人に親切にしてくれる人がいて、私も色々お世話になりました。詐欺にも遭いましたが。プラマイ=プラスです。
本当に親切な方が多いですね。いつも必ず良くしてくれる方に会うので、お礼に咄嗟に差し上げられるようにじゃがポックルを何袋か持ち歩くようになりました。お礼がそれかよ。でも一度ものすごく好評だったから、って書きながら、あれはエヴォラに住むオーストラリア人だったのを思い出しました。揚げたてのじゃがいもをレストランでも残しまくっているポルトガルの皆様には大したことないか…
by caldoverde
| 2012-05-28 03:23
| ポルトガルの旅
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Comments(11)


